さて、歴史のおさらいでも

 何となく優勝した時の動画とか見ていたら懐かしくなりました。なので99年から最近までの大洋の歩みとか。

1999年

 20世紀最強といわれたマシンガン打線と、圧倒的な成績でMVPを獲得した大魔神佐々木の活躍で38年ぶりの優勝を成し遂げた翌年。当然優勝候補の筆頭であったが、無理矢理逆指名させた松坂(横浜高校⇒西武)を抽選で外した時点で「何でも上手く行く」勢いはなくなったように感じていた。
 
 不安は的中して開幕から6連敗。優勝と年棒の大幅アップで選手が浮かれきっていた事は想像に難くない。しかし20代後半の主力選手を多数抱えていただけあって、徐々に安定。シーズン最多安打に最多打点(ともに当時)を挙げた白薔薇様に、17勝を挙げた川村、被本塁打王ながら14勝3敗だった斎藤隆らの活躍で夏場には10連勝。チーム打率も一時は3割に乗せた。
 
 しかし7月。優勝した年のオフに毎日のようにテレビに出て遊びまくっていた佐々木が右肘の故障で離脱。「阿波野」だの「横山」だの「島田」だの、有象無象を「日替わり大魔神」等と分不相応な名前をつけて抑えに持っていくが、中継ぎローテーション等と甘やかされていた投手に穴など埋められるわけも無く、結局最後は先発のコマ不足も響いてこの年は3位。チーム打率は当時の記録となる.294だったが、阿波野が先発するようでは勝てません。

2000年

 99年に故障で離脱していた左腕エース野村が復帰。しかし去年散々迷惑をかけた佐々木は「メジャー挑戦」をぶち上げて移籍。この穴を埋めるべく獲得したのが「ラファエル・ベタンコート」。しかし完全な素材型だった投手に抑えなど務まるわけが無かった。
 その後先発でそこそこ投げていた福盛に代わるもやはり安定せず、結局逆指名以降散々文句をいわれていた新人の木塚が抑えを務めることになった。(明治の投手なのに中日が手をつけないなんて地雷に決まっていると言われていた。)
 
 波留、進藤の離脱した打線はこの年首位打者と新人王をダブルで獲得した金城や多村が台頭してきたものの、相変わらず連打でしか点を取れず。さらに去年の中心だった斉藤、川村が大不調。三浦やFAで獲得した小宮山あたりがそこそこ頑張ったが、結局投手陣が安定せずそのままシーズン終了。投手を総動員して何とか3位に滑り込んだものの、そのお陰でこの年引退した選手達は引退試合を行えないままだった。
 ああ、追記。三振してはヒヒ−ンとか言っていた馬面の人が2000本打って退団。最後まで往生際悪く現役にしがみつこうとしていたが、結局手を上げてくれる球団は無かった。
 

2001年

 白薔薇様の退団で焦った球団は、一点を取るためにバントをしない権藤を更迭して徹底した管理野球を掲げる森を招聘。「蟻の群れで勝つにはそれなりのやり方がある」だの「谷繁を締めなおす」だのとファンの不安を無駄に煽る発言を連発。犠打で一点を取って守りぬく野球を掲げ、斎藤隆を抑えに回し、左のワンポイントとして杉山を獲得。
 
 しかし今まで好き勝手やってきた選手に管理野球などできるはずが無かった。2番に入った金城が案の定複雑なサインに戸惑って打撃を崩して低迷、さらに白薔薇の代わりに4番に入った鈴木タコ助が落合(現中日監督)に「三冠王が取れる」等と唆され、分不相応な大ぶりをして低迷。
 抑えに出てきては自演を繰り返すアレに、100勝した途端にFAした小宮山。全盛期の輝きなどとうの昔に消し飛んだかのような炎上を繰り返す川村。さらに犠打を駆使しても結局は連打でしか点の取れない打線。シーズン後半には森監督に「堪忍袋の緒はとっくに切れてなくなった」といわせるなど、管理野球なんて大洋には無理である事を知らしめる一年となった。

2002年

 森野球二年目。少しは采配にも慣れたかと思いきや、選手は色々指示を出す森監督に不満噴出。オフに正捕手の谷繁にFAで離脱されると、苦し紛れにどこからどう見ても賞味期限を過ぎている中村(元中日)、中嶋(元西武)を獲得。案の定走者が出れば三塁までフリーパス、さらに鈴木を4番から下ろしたものの代わりが「グラン」だの「ロドリゲス」だの若くない「ヤング」だのと有象無象の外人。
 こんなチームで勝てるわけが無く、5月は怒涛の13連敗で最下位を独走。結局谷繁の離脱が主力流出で弱っていたチームに止めをさす事になった。
 
 結局9月にはもう借金がいくつあるのか分からない状態になり、森監督は休養。西武時代の名将は三顧の礼も何のその、大洋お家芸の「途中解任」の憂き目にあい、会見で喧嘩を始めたカメラマンに「怒るなよ、もう怒られるのはいいよ」等としょぼくれたコメントを残してユニフォームを脱ぐ事になった。
 そんな中、一年遅れでローテに定着した吉見は11勝を上げて新人王を争い、黒酢政権下で4番として抜擢された古木は34試合で9本塁打。ファンの数少ない希望となった。

2003年

 森を途中解任してしまった大洋は、生え抜きの切り札として権藤政権下のヘッドコーチ、山下を招聘。TBSも山下には期待していたようで、3億円だしてメジャーで4番をはっていたスティーブ・コックスを、さらには3年4億でダイエーをFAした若田部、さらに中継ぎとして西武からデニーを獲得。斎藤を先発に戻し、抑えにはホワイトサイドという速球右腕を用意。最下位脱出に執念を見せた
 
 しかし肝心のコックスがキャンプの走塁練習中に膝を故障。開幕絶望となると、念のためにとっておいたタイロン・ウッズを4番、ドラフト自由枠の村田を2塁、期待の古木を三塁で起用。ちなみに捕手は中村。今思えばこんな世紀末的な内野陣でよく野球をやろうという気になったものだ。
 
 開幕こそ去年11勝の吉見で勝ったものの、その後は案の定ホワイトサイドが炎上し、若田部の故障に、古木、村田の大型扇風機のような三振量産であっという間に去年の位置へ。吉見もその後は出てくるたびに炎上し、戻ってきたコックスは一本本塁打を打ったかと思うとまた離脱。ホワイト斎藤の代わりのデニーは伝説を作るような炎上ぷり。
 「8番にバントさせたのに投手をそのまま打席に送る」「ライトとレフト交換」「代走に代走を出す」等、大ちゃんの采配も采配だったが、選手も選手で若手も新戦力も一様に期待を裏切り続け、ラビットボールの影響で本塁打だけは異様に出たものの、三振数はウッズ、古木、村田だけでおよそ400個。結局終わってみれば44勝94敗2分けと歴史的な大敗。
 え、アレ様?何してたっけ?

2004年

 2年目の大ちゃん政権。2番鈴木、3番多村、5番村田等と人を愚弄するにもほどがある打線を組み、開幕は気持ちよく敗戦。しかしメジャーで通用しなくなり、「年金を受け取ろう」と大洋に復帰した不義魔神が何となく抑え、最近めっきり存在感のなくなった川村の中継ぎ転向も大当たり。去年散々やられた阪神に妙に勝てたため、5月の時点でなんと何年ぶりかわからない首位に。
 
 まあ、戦力的に首位を維持する力なんてあるわけも無く、大ちゃんの相変わらず意味不明な采配と中継ぎの疲労から案の定あっという間にBクラスに。頼みの佐々木も球宴明けに連続でセーブに失敗して二軍落ち。その代役が門倉だというのだから、もう結末は見えたようなものだろう。
 
 最後の方まで何とか5位にしがみついていたものの、ゲーム数の違いであっという間に逆マジック1が点灯。何とか最終戦まで粘るも、育成目的で引っ張ってきたセドリックが勝ち頭のチームではそこまで。FA権を獲得した佐伯が「チームに必要とされてない」と最終戦で男泣き、挙句何故か大ちゃんをライトスタンド前で胴上げする等、何がどうなっているのかわけのわからんまま大ちゃん政権は閉幕。時代はインテリヤクザに受け継がれる事になる。